人生に2度目はない

プロトレイルランナーの鏑木毅さん。

私は彼と年齢も近いし、頑張っている姿に影響される。その彼が日経新聞の夕刊に書いてた記事が心に刺さった。本当そうだと思う。

先日、高校サッカーの全国大会で、新型コロナウイルス感染者が出たあるチームが辞退を余儀なくされた。感染していない選手だけで参加するという選択肢もあったはず。おそらく社会的な風評を鑑みての判断だったのだろう。高校生にとっては二度と巡ってこない機会を失うことになるわけで、どうにも釈然としない。

 コロナ禍もついに3年目となり、再び感染の波が押し寄せている。

 十分な感染対策を施し、社会全体が拡大防止に手を尽くすことはもちろん大切だ。だが「死」という誰もがたどる現象を過度に恐れるあまり、個々人の人生が、とりわけ若い人たちの人生がねじ曲げられているのを見過ごすわけにいかない、そんな思いが募る。

 2011年の世界最高峰の山岳レース、UTMB(ウルトラトレイル・デュ・モンブラン)で私は、左足の大きな故障で完走すら難しい状況だった。それを周囲に打ち明けることができぬまま、優勝を期待されていた。プレッシャーに押しつぶされそうになり、さらに痛みで左足に全く力が入らない。危険な山岳地帯を無事通過できるかが非常に心配で、スタートラインに立つまでは生きた心地がしなかった。

 ところが、いざスタートラインに立つと「このレースで悔いなく力を尽くせば死んでもいい」と思った。当時すでに42歳の自分にとって「このようなビッグレースで勝負できる機会はそうそうないはず、ならばレースを楽しもう」と腹をくくれた。自然と落ち着き、レースは終盤まで苦しみながらも7位入賞を果たせた。

 この時初めて、自分がやるべきことをやり人生の最期を迎えるのであれば本望ではないか、と考えた。万事をこれで片付けることはできない。ただ、突然訪れるであろう「死」に対しおびえすぎず、やりたいことに精いっぱい取り組みたいと考えている。

 これまで少なからずの岳友を山で失った。年若くおよそ死とは無縁と思えた人たちばかりだった。そのなかのひとりは生前、「好きなことをして終わるなら、それでいいんじゃないのかな」と語っていた。

 彼らは間違いなく全力で生きていた。山に向かう際の生き生きとしたさまを思い出すにつけ、最期を「不遇」のひとことで片付けてよいものか、と疑問を抱く。

 日本は医療をはじめとする社会環境が整い、世界最高レベルの長寿国だけれど、それゆえに死生観を持ちにくくなっている気がする。天寿をまっとうする死こそが幸せなことで、平均寿命までたどり着かない人生や、病気や事故での死は不遇なものととらえがちのように思える。どう生きるかよりも、一般的にいかに長生きできるかに重きを置いている。

 人生の価値は、個人それぞれが決めればよいもの。広く社会に浸透した既成概念にとらわれてよしあしを語るべきでもないだろう。人生に2度目はない。だとしたら、その瞬間、望むことを思う存分やれる機会を誰もが得られ、完全燃焼できる社会が大前提であってほしい。(プロトレイルランナー)

単に長生きだけすればいいのか?

やりたい事をやれるうちにやりきったほうがいい。石橋叩いて渡らない人生はつまらないと思う。

これも、ウェルビーイング!

yasu

昭和~令和までサラリーマンやってます。心がフッと軽くなる考え方や、元気に生きて行こうという気持ちになるブログを目指してます。誰かのために、もっとWell Being(幸福)な世の中のために!

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