子供の頃、よく祖父に「屁理屈ばっか言っとったらあかんわ!」と言われたものだ。
テーブルに置いてあるリンゴを見て、リンゴと自分は同じと思う人はいないだろう。
では、それを食べてお腹のなかにリンゴが入ったら、そのリンゴは自分と同じなのだろうか?
リンゴの水分や栄養が体内に取り込まれたら、その水分や栄養は自分と違うのだろうか?
何が言いたいかというと、自分とリンゴの境線はどこにあるのだろうか?という疑問だ。テーブルに置いてあるリンゴは自分と同じではなくて、食べたリンゴは自分になるのだろうか?
または、生えている髪の毛は自分で、床屋で切った髪の毛も自分なのだろうか?または自分ではないのだろうか?
一体全体、どこまでが自分でどこからが自分じゃなくなるのだろうか?
そう考えると、こんな曖昧模糊とした自分にどこまでこだわり、執着する必要があるんだろう?と思ったりする。
よく「自分探しの旅」とか言うけれど、こんな曖昧な自分なんてどこを探しても見つからないんじゃないかな。
だったら、むしろ「自分無くしの旅」に出たほうが、理にかなってるし、スッキリして気楽な気持ちで生きていける気がする。
「自分無くし」という言葉は、みうらじゅんさんが言ってた言葉だ。
もし、祖父がまだ生きていてこんな質問したら、きっと「たわけ!屁理屈ばっか言っとったらいかんわ!」と言うかも知れない。
そもそも、自分というものが無いのであれば、そんなに自分にこだわらなくてもいいんじゃないかな。
これも、ウェルビーイング!
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