『欲望』と『愛』の違いについて、精神科医の泉谷閑示さんがこんな物語を例に出して説明している。
「五本のバナナ」
バナナが大好きな旅行者が、ある貧しく暑い国を旅しています。
その国には、道端に物乞いがたくさんいます。
旅行者は、物乞いに施しをしようと考えます。彼はちょうど大好物のバナナを五本持っていました。
普段の彼は、三本食べると満腹して満足します。そこで彼は、自分で食べるのは二本で我慢することにし、
残りの三本を気の毒な物乞いにあげました。しかしこの物乞いはバナナが大嫌いで、一言のお礼も言わず、
彼の目の前で、地べたにバナナを捨てたのでした。
(泉谷さんの解説)
さて、バナナをあげた旅行者は、いったいどんな気持ちになったでしょうか。
自分は我慢して施したのに、感謝もなく恩知らずな物乞いに腹が立ち、怒り心頭でしょう。
しかし、もし自分が三本のバナナを食べて、残りの二本はどうせ腐ってしまうのだからと 物乞いに差し出していたらどうでしょうか。そもそも自分でも食べきれずに捨てたはずなのですから、それほど腹も立たないでしょう。
この一本の違いが、「愛」と「欲望」の違いを生むのです。
我慢してあげた一本は、感謝と言う見返りを期待してしまっている、「偽善のバナナ」になるのです。
我慢した一本に何が込められているかといえば、それは同情心です。しかし、その奥に「感謝して欲しい」「善い人と思われたい」「善いことをしたという自己満足が欲しい」などが潜んでいる。
それは善い行いのように見えて、やはり「欲望」です。
一方、「たまたま余ったので、捨てる代わりにご自由にお役立てください」という場合には、仏教でいうところの「喜捨」喜んで捨てるという行為になります。
表面だけ善人のように整えても駄目で、等身大でなければ不純なものに変わる。ですから、「愛」のために私たちができる第一歩は、逆説的ですが、“まず自分をきちんと満たしてやること”なのです。
ところが面白いことに、人間は自分を満たしても、必ずいくらかは余るようにできている。
この余ったものを使ったときには、「愛」の行為になるのです。
これは、相田みつおさんの言葉。人の為に善い書いて「偽善」
なかなか奥深い、、自分の動機をしっかり見張らなきゃ。
これも、ウェルビーイング!
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