北京オリンピックがやっている。そりゃみんなメダル獲りたいに決まっているし、その為に人一倍努力もしているのだろう。
でも、全員がメダルを獲れるわけではない。予選落ちしたり、メダルが獲れない人も当然いる。では、メダル獲れた人は幸せで、取れない人は不幸なのだろうか?
何が言いたいかと言うと、幸不幸は「結果」だけに左右されるものだろうかということ。
結果としてメダルが獲れればそれに越したことは無いし、撮れなくても、オリンピックに出るまでに練習して得た技術や精神力や仲間など、それまでの過程も幸せだったんじゃないかということ。
「メダル獲れば幸せ」だけでなく、「メダル獲るために頑張っている今この瞬間もずっと幸せ」と思っていたほうがいいと思う。
(スマナサーラ長老もこんなことを言っている)
「例えば、一生懸命苦労して、畑を作って、後で結果として作物が採れる。土をいじって、肥料をあげ、水をあげ、雑草を取る。つらい重労働でも、やらなければならないからやる。なぜならば結果として、いろいろな作物が採れて、自分のもとに入ってくるのだから。その目標のためにがんばる…。ずっと苦しんだら、ちっぽけな幸福が出てくる。会社の仕事にしても、1ヶ月間仕事をしたら1回だけ給料をもらう。そしてそれはすぐ消えてしまう。毎日苦労して、幸福の瞬間はほんのわずか。それが一般的に考えられている生き方でしょう。
それを仏教の考え方で考えてみると、畑を作ることも幸福であって、水をあげることも幸福であって、肥料をあげることも、雑草をとることも幸福、そしてどんどん成長を見守っていることも幸福であり、実ったところで作物を取り入れることも幸福、そういうふうに、全部が幸福でなければならないと考えるのです。苦しんでからの結果の幸福ではなくて、道自体も楽しい道でなければなりません。一般的な生きる道と、仏教的な生きる道の差を、頭でだけでも理解しておきましょう。
どこかに面白いところがある。誰でもそこへ行って遊びたい。では行こうということになると、道中の乗り物も楽しいし、旅の途中で食べるものも、見るものも、楽しいし、寄り道したり、みんなで歌ったり踊ったりして行くこと自体も楽しい。そして、目的地に着いたら着いたで、また楽しい。仏教というのはいわばそんな道なのです。仏道というのは、たとえわずかでも苦しいものではないのです。もしも苦しいというならば、我々がどこかで、何か、固定観念に引っぱられているということなんですね。」
いつも、幸せでいたいし、そんな考え方も大事だと思う。
これも、ウェルビーイング!
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