草薙龍瞬さんのブログより。とても大切なこと。子どもに限らず大人も理解したい。
(長いけど引用させて頂きます)
悲しいかな、人の心の恐ろしさを感じる。そのことを理解すれば対処できる。
いじめを受けることは、とてもつらい。
おおげさではなく、人生の危機だ。今のままでは自分が滅ぼされていく。
自分ひとりがいじめを受けていて、周りの人は気づかない――いじめの最初は、たいていそうだ。
ごく小さな、自分にしかわからない形で始まる。
私物が消える。無視される。わざと聞こえるように嫌味や悪口を言われる。こづかれる。ぶつかってくる。望まないことを強いられる。辱めを受ける。傷つけられる。さらには・・もっと陰惨な仕打ちもある。
いじめは、エスカレートする。いじめる側の悪意は、次第に大きく、執拗と化す。
これは、心の性質だ。悪意は止まらない。最初の悪意が通った時点で、小さな快楽を感じる。周りに咎める者・止める者がいない。その時点で、悪意に歯止めが利かなくなる。
いじめる側に芽生えた小さな嫉妬や不満を、相手に向ける。近くにいる、立場が下の人、体力的に勝てそうな、気が弱そうな、優しい、人に悪意を向けるという発想のないまともな人が、ターゲットになる。こうした人たちは、悪意ある者にとって安全だから。
いじめの本質は、“止まらない悪意”だと思ってほしい。小さな悪意が形になった時点で、その悪意は続く。
しかも広がっていく。なにしろ悪意を向ける者は、その場所では体力的に、あるいは立場が「上」だからだ。
◇
こうした悪意を向けられるに至った人は、自分の全人格、未来、そして生命さえ脅かされる。危機だ。
「この場所で自分に何ができるか」――を全力で考えることになる。
もともと体力的に、あるいは立場的に相手が強い。そんな相手に伝えることは、骨が折れる。単純に怖いし、難しい。
だが黙っていたら、悪意は続く。だからどうしても、「伝える」という選択肢になる。
相手に伝える。だが伝わらない。ならば、その相手よりさらに強い相手に伝える。つまり、先生・上司、あるいはさらに上の人。
いじめを加える人間がその人一人だけであるなら、上の人がわかってくれる人であれば、可能性は開ける。本来、場所や組織の最もまともなあり方は、「いじめは絶対に容認しない」という立場を貫いていること。当たり前の話。
なぜなら、いじめは単純な悪意だから。だがその場所の意味は本来、いじめとはまったく関係がないところにあるはずだから。
まともな場所なら、事実を伝えれば、わかってもらえるものだ。しっかり事実を確認し、二度と起こらないように手を打つ。当たり前の話。
◇
ところが・・・この当たり前が通らないことが多い。いじめる本人だけでなく、「上の人」もまた悪意を容認してしまうことが、驚くほど多い。
なぜかというと、場所には、現状維持の重力が働くから。
先生、校長、社長、理事長・・・いろんな「上の人」が世の中にいるが、こういう人たちは、まず自分の立場・肩書・生活のほうを見る。心の性質だ。基本的に心は、自分に害がなければ、現状維持を望む。
自分の立場が安定していれば、心は満足してしまう。だから自分に見えない(安定とは関係がないと本人には見える)ところで、いじめ・不祥事があっても、基本的に見ようとしない。「そんなことはない」「面倒くさい」「騒ぐ方がおかしい」とさえ考えてしまう。
自分の安定が第一なのに、いじめという異常事態が発覚する――この時、心は、自分の安定・立場が脅かされることを察知する。「都合が悪い」と感じる――
だから最初に言うのは、「そんな事実は確認していない」「いじめはない」という言葉。
単純に、自分の安定(いわば保身)が最初に見える。だから出てくる言葉だ。
◇
いじめの構図には、共通項がある。
最初は、いじめる人間個人の悪意。
次に周囲の無視。なぜなら悪意を言動に移せるのは、立場が強い人(上司・先輩・先生etc.)だから。周囲も見ないふりをする。
さらに、上の人の保身―-いじめを訴えた人が直面する異質の原理。
いじめを受ける人は孤立無援だ。その場所に愛着があるほど、絶望は深くなる。
憧れをもって入った場所なら、その場所にい続けたいと思うのは、当然だ。自分が努力すれば、きっと進級できる、夢がかなうと思う。そういう場所だと聞いていたから、そう思うのは当然の話。「まともな場所」なら、本人の意欲と努力が正しく評価される環境になっているものだ。
だが、現実には、「悪意」と「保身」がその場所の原理であり、伝統、文化、校風だったりする。
もともと悪意を向けても許されてしまうような、上下の構造や力関係があった。
あるいは、「上の人間」の保身が通るくらいの惰性が続いていた。伝統、歴史、閉塞性。
陰湿ないじめがときおり発覚するが、共通するのは、こうした条件がそろっている場所だ。
◇
いじめを抜け出すために、確実に正しい道筋というものがある。
一つ、小さな悪意を容認しないこと。
悪意は悪意だ。加害者が先輩だからとか、上司、先生、校長、社長だからといった理屈は通らない。相手の悪意を察知した時点で、「やめてもらえますか」と伝えること。
いつ伝えるかは考えてよいこと。でも受け容れることは正しくない。悪意は続くものだから。
穏便に伝えても、悪意は止まらないかもしれない。ならば真顔で伝えることを選ぶ。怒ってもいい。泣いてしまってもいい。
「やめてもらえますか(わかりますか?)」と伝えること。それが正しい選択。
二つ、他の人を探すこと。
伝えても伝わらないことが、現実には起こりうる。何しろ悪意は続く。相手は悪意を通せるくらいに「強い」人間だ。無視される。笑われて終わり。あるいはいっそういじめが悪化したり、報復されたりという事態も起こりうる。
その時は、ちゃんと記録を取ること。そして、この事態を誰に伝えるか、わかってもらえる人はいるかを、その場をよく見渡して考える。
「まともな場所」なら、言えば伝わる。あっさりと。「事実」ほど強いものはない。事実を確認する。こちらの思いも受け止めてもらう。
事実は、人によって違うこともあるから、簡単にはわかってもらえない事態も起こりうる。だが、だからこそ「記録」がモノを言う。
事実と感情―-この二つは、受け止めることが基本だ。「まともな場所」なら、感情は受け止めてもらえるもの。そして事実ならば、再発防止の策を直ちに取る。「まとも」とはそういうものだ。
だから、いじめというのは「まともな場所」なら、続かない。
「まともな場所かどうか」―-これも、よく周りを観察して、考えてみてほしい。結局は、伝わるかどうか。
三つ、外の人を探すこと。
「どうやらまともな場所じゃない」ということが見えてくることもある。
個人の悪意が通ってしまう。事態を訴えても、無視される、はぐらかされる、隠蔽される、いっそう追い詰められる。
そういう場所は、「悪意」と「保身」がまかり通っている場所だ。では、そこからどうするか?
もし自分の怒りが強いなら、今度は「外の人」に伝えていくことも、選択肢になりうる。行政、弁護士、NPO、さらにはメディアやSNS――なるべく平穏無事に解決したいものだが、そのままでは解決しないとなれば、「外の人」に理解を求めていくほかない。
四つ、こちらから捨てること。
伝えても、理解されるかどうかは、わからない。
その場所に、いられなくなるかもしれない。
だが、悪意を受け続けるくらいなら、その場所は、どんなに愛着があったとしても、やはり留まる価値のない場所なのだろうと思う。
その場所から離れるのは、くやしいし、みじめだし、寂しいし、本当につらいものだけれど、自分が「伝える」という一本の筋を最後まで通して、「伝わらない」ことがわかったならば、もはやしようがないのかもしれない。
その先は、その場所の異常さとは無縁の「まともな世界」を探して、その中でまともに生きていく。
新しい人生を生きる。
それが最後のゴールということになる。
◇
今の時代は、悪意が簡単に世に晒される時代だ。人を傷つけることも簡単にできてしまう時代だが、かつては闇へと葬り去られてきた悪意を、「外の人」に伝えることもできる時代だ。
もちろん、心優しい人、まともな人なら、わざわざ外の人たちに訴えることは、なるべくしたくないと思うはず。
ただそのことで、自分の心の傷、烈しい怒りが続くようならば、事実を伝えるということに打って出てもいいとは、個人的に思う。
何しろ、個人の悪意と、その場所の保身(現状維持)は、続くものだからだ。自分一人が黙ることを選んでも、今度は他の人が悪意と保身の餌食になる。闇の中で苦しみが続く。
最初は小さな悪意。次に直面するのは、その場所の保身と停滞と腐敗。
その時点で、たいてい絶望を感じてしまうものだけれど、その場所の外の世界はどうかといえば、まだわからない。
外の世界も保身がまかり通る――というなら、もはや世界からみずからを隔離して生きていくしかないかもしれない。だが案外、外の世界には、まだまともな人、わかってくれる人も残っている可能性もある。
「わかってくれる人」を探して生きていく。
その場所にしがみつきたくなる気持ちに見切りをつけて。
今いじめを受けている人には、「外」の誰かを見つけてほしいと思う。
君が死ぬ必要なんて、ない。
外の世界でだれか一人と出会えたら、生きていける。(引用終わり)
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