心にシャドー(影)があってはダメなのか

やれウェルビーイングだの、やれ幸福だの、と言ってるけれど、人間はそんなにピュアであるはずもなく、とっても複雑怪奇な生き物と思う。

ニュースでよくある話しは、「普段から仕事熱心で真面目なあの人がなぜ?」とか「少年野球のコーチで子煩悩なあの人がなぜ?」とか「近所でも評判の仲良し家族がなぜ?」とか「教育熱心な学校の先生がなぜ?」とか「警察官なのになぜ?」とか「いつも礼儀正しく挨拶するあの青年がなぜ?」とか、数え上げたらキリがない。。

ニュースキャスターが「なぜ?」という疑問を呈するたびに、私は「なぜ?そんなに不思議なことか?」といつも疑問に思う。人間はそんな単純ではない。

自分でも本当に自分の心の中を分かっているのかどうか疑わしいのに、ましてや他人が他人の心の中を分かるはずもないというのが本当のところではないか。

誰の心にも、人には言えない(言いたくない)闇というかシャドー(影)があって当たり前だと思うし、そう思って人と接するほうが健全だと思う。

シャドーがあることは決して悪いことではなく、シャドーも自分の一部と受け入れている人のほうが信頼できる。「分かっちゃいるけどつい。ごめんね」と素直に言える人がいい。たちが悪いのは、シャドーを隠して「私は真面目でいい人」と善人ぶるほうが欺瞞に満ちてて信用できない。

何が言いたいかというと、人間は複雑怪奇な生き物であるという前提で、自分にも相手にも心の中には邪悪な面やシャドーがあることを受け入れて、それでもそれを克服しようと努力していて、お互い受け入れて許しあえる関係がいいと思う。

認めたくない自分と向き合える勇気、認めたくない相手のことも理解しようとする器量。

これも、ウェルビーイング!

昭和~令和までサラリーマンやってます。心がフッと軽くなる考え方や、元気に生きて行こうという気持ちになるブログを目指してます。誰かのために、もっとWell Being(幸福)な世の中のために!

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