死ぬのはどっかのジジイ

(面白かったので引用です)
養老孟司さんが、自分の死について聞かれて、こんなことを言ったという。

「オレが死ぬわけじゃない。どっかのジジイが死ぬんだ」

いいなあ、と思った。

私も78歳になったが、いまだに自分が「老人」であるという実感が薄い。

鏡を見ると、そこには確かに知らないジジイがいる。

ところが中身は、30歳の頃とそれほど変わっていないとしか思えない。

欲望もある。好奇心もある。K-POPも聴く。AIも面白い。新しい仕事もしたい。

困ったことに、身体だけが先に事情を理解している。

階段は正直だ。暗い場所も正直だ。昨日まで何でもなかった段差が、ある日突然、「あなたはもう若くありませんよ」と話しかけてくる。

余計なお世話である。

養老さんは、3,000体以上の遺体を解剖してきた。

死を思想としてではなく、物体として見てきた人である。

そんな人が「死は怖くない」と勇ましく言うのではなく、「考えてもしょうがない」と言う。

そこがいい。

人間は、どうにもならないことほど管理したがる。

健康を管理し、老化を管理し、財産を管理し、葬式を管理し、最近では「終活」という名前で、自分の死後までプロデュースしようとする。

死んでいるのに、まだディレクター気分である。

遺影はこれ。音楽はこれ。誰を呼ぶ。誰は呼ばない。

生きている間には人の言うことを聞かなかった人まで、死後の進行表だけは細かい。

葬儀は、生きている人の為のものだ。

しかし養老さんに言わせれば、死は本人には経験できない。

考えてみれば当然だ。

「ただいま私は死んでおります」と実況中継できる人はいない。

死んだ瞬間、本人はそのニュースの視聴者ではなくなる。

自分の死をいちばん知らないのは、自分なのだ。

そう考えると、少し気が楽になる。

私はこれまで、人生のピークより谷のほうを長く歩いてきた。

成功もあった。失敗はもっとあった。

会社が危なくなったこともある。家族を失ったこともある。50歳で屋上から落ちたこともある。

それでも、なぜかまだ生きている。

人生というものは、こちらが考えたコンセプト通りには進まない。

私はコンセプターを名乗ってきたが、人生だけは、まったくコンセプト不能である。

若い頃は、人生を自分で設計できると思っていた。

年を取ると、設計図の外側で起きることのほうが多いとわかってくる。

病気。事故。別れ。老い。そして死。

つまり最後まで、予定外である。

養老さんの死生観は、死を美化しない。克服もしない。大げさな意味も与えない。

自然に返す。それだけだ。

私たちは死を人生最大のイベントだと思っているが、本人にとっては、参加できない唯一のイベントだ。

だったら、死に方を心配するより、今日を少し面白くしたほうがいい。

私は今日も、AIでクリエイティブを実験し、相変わらず若い人と話し、新しい音楽を聴く。

鏡の中のジジイは、確実に老いている。

しかし、まあいい。いつか死ぬのは、私ではない。

その頃の、どっかのジジイだ。
(引用終わり)

いろんな考え方がある。

これも、ウェルビーイング!

コメント