島津家

歴史を紐解くと面白い話しが転がっている。

島津家は九州で800年続いた大名だが、なんと鎌倉と深い縁があったという話し。

(引用)

源頼朝の寵愛から始まった、島津家と鹿児島の歴史
島津家の初代・島津忠久(ただひさ)と、鎌倉幕府を開いた源頼朝の間には、極めて特別な信頼関係がありました。一説には、忠久は頼朝の「落胤(隠し子)」と噂されるほど熱く寵愛され、若くして幕府の要職に抜擢されています。

では、なぜ遠く離れた「鹿児島」が島津家の領地になったのでしょうか。

なぜ鹿児島だったのか?3つの決定的な背景
① 日本最大のメガ荘園「島津荘(しまづのしょう)」の存在
当時、現在の鹿児島県から宮崎県にまたがる広大なエリアには、「島津荘」という日本最大のマンモス荘園(富を生み出す巨大なプライベート領地)が存在していました。この莫大な富を生む土地を「誰に管理させるか」は、天下人となった頼朝にとって最重要事項でした。

② 京都の名門貴族との「強力なコネ」
この島津荘の実質的な最高オーナーは、京都の超名門貴族である近衛(このえ)家でした。
そして、島津家の初代となる惟宗忠久(これむねのただひさ)の「惟宗氏」は、もともと京都で近衛家に仕えていた実務官僚の家系だったのです。つまり忠久は、「最高オーナー(近衛家)とも顔なじみで、現地の利権事情にも明るい、話の通じる男」でした。

③ 源頼朝の「西国(九州)支配」という国家戦略
平家を滅ぼして鎌倉幕府を開いた源頼朝にとって、最大の課題は「遠い九州をどうやってコントロールするか」でした。九州にはまだ平家の残党や、幕府に反抗的な地元豪族が潜んでいたからです。

そこで頼朝は、こう考えました。

「京都の近衛家とも上手に調整ができて、なおかつ自分(頼朝)に絶対の忠誠を誓ってくれる、最高に頼れる部下をあそこに送り込もう」

この条件に100%合致したのが、頼朝の側近として鎌倉で頭角を現していた忠久だったのです。

つまり、頼朝の「天才的な人事戦略」と、忠久の「血筋と有能さ」が掛け合わさった結果、島津家は鹿児島という新天地を手に入れることになりました。

当初、忠久自身は鎌倉から動かずに代理人を派遣していましたが、のちに一族が鹿児島へ完全移住し、そこから幕末まで約700年も続く最強の絆が現地で育まれていくことになります。

身近な鎌倉と鹿児島(行ったことないけど)がこんな深い関係があるとは、歴史は面白い。

これも、ウェルビーイング!

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