昔から見苦しい年寄りはいたんだと思う。
男の年寄りについて、清少納言は厳しい視線を投げかけている。時流に乗って栄えている人のところに、暇をもて余した老人が、どうでもいい和歌を詠んでよこすのは「すさまじ」、すなわち「興ざめ」だ、と書いている。

出世コースに乗って我が世の春、という会社役員のところに、定年退職したOBがせっせとメールをよこす、といった感じかもしれない。
『枕草子』の愛読者だった兼好法師もまた、清少納言と同じような感覚を持っていた。『徒然草』には、「聞きにくく見苦しき事」として、
「老人の若き人に交(まじは)りて、興あらんと物言ひゐたる」
とある。すなわち、老いた人が若い人に混じって、面白がって話したりするのは聞き苦しいし見苦しい、と。
私は基本的に「人は年齢ではない派」、つまり自分の心の持ちようが大事という考え方だけれど、年を重ねると肉体面や社会的な立場はどうしても変化する。こればかりは仕方のないことだし、自然なこと。
だけれども、例えば若い人相手にそういうことも考えずに、上記のように振舞うことは見苦しいこと。
自分と、その自分を見つめるもう一人の自分という存在を意識していけたらカッコいい大人になると思う。
カッコいい大人になろう。
これも、ウェルビーイング!