この7つの「慢」、、、結構自分に当てはまる、、、まだまだだなぁ。。。
慢というのは、「他と比較して心の高ぶることをいい、自ら自己におごり高ぶることを憍という」
慢は、慢・過慢・慢過慢・我慢・増上慢・卑慢・邪慢(じゃまん)の七慢に分けられます。
ひとつひとつ見てゆきましょう。
第一の「慢」というのは、自分より劣ったものに対して、自分の方がすぐれていると思うことです。
これも当たり前のようですが、慢心のひとつなのです。
第二の「過慢」とは、自分と対等のものに対して、潜在的に自分の方がいいと考えていることであり、自分よりすぐれたものに対して、あれくらいは大丈夫と思うことです。
三番目の「慢過慢」とは、自分よりすぐれたものに対して自分の方がすぐれていると思いこむことです。
四番目が「我慢」、自分にこだわって、自分の方が相手よりすぐれていると思い上がることです。
一般に我慢は、我慢するといって辛抱することに使われていますが、本来は慢心のひとつです。
それから五番目が「増上慢」です。まだ分かっていないことを、さも分かっているかのようにふるまうことです。まだ悟っていないのに悟ったと思う慢心であります
六番目が「卑慢」で、自分よりはるかにすぐれた者に対して、たいしたことはないと思うことです。
七番目が「邪慢」で、自分に全く徳がないのに、徳があると思いこむことです。
ちなみに「卑下慢」というのがありますが、これは卑慢と同じです。慢の一種で、自分より数段勝るものに対して、少しく劣るのみと思って慢心することですが、また通俗的には、へりくだっているふりをして、実際には自慢する意にも用いられています。
よく挨拶で、「甚だ僭越ながら」とへりくだっているように見えながら、自慢していることがございます。
お釈迦様は、「自分をほめたたえ、他人を軽蔑し、みずからの慢心のために卑しくなった人、彼を賤しい人であると知れ。」(スッタニパータ・132)と仰せになっています。
「疑」は、「ものごとをはっきり決めかねて、ためらうこと。意の定まらないこと。四諦など仏教の説く教えを信じきれず、あれこれと疑いを抱くこと」であります。
こうした目で自分の心と相手の心を見てみよう。
もっと深く人間という生き物を観察できる。
心をコントロールできる人が最も素晴らしいと思う。
これも、ウェルビーイング!